ラブストーリーではない、私の遺書。(仮)
皆様お久しぶりです、 あ です。
何ヶ月ぶりか忘れましたがブログを書きます、失礼しました。
、、と言ってもそんな私は、久しくもあるのに
全く話題の収集が追いついていなく
恋愛のコンセプトが全く決まっておりません。
なので今日は、ここに私 あ の遺書でも書きます。
暇潰しにでも見て下さい。
1番最初の記事で私の自己紹介も兼ねて
このブログについてのご紹介をしましたよね。
あ、読んでない方は是非かるぅ〜く(この文字ぐらい軽く)読んで頂けたら幸いです。
そこで、私の自己紹介も薄く書かせて頂いたんですが
今回私の遺書ということなので
もう全て私のことを書きます。
あ、解りますよ。
興味ないのはわかっております!!
けれどこんな世の中に何億以上もの人がいて
その人々、一人一人が全員
性格・価値観や個性の持ち方などが違う
そして私たち人間が生きている中で
その世の中の人、一人一人の性格を知ることが出来ない
それは、決まってるんですよ。なので、
"こいつこんな人間なんだ"
"へえ〜こう言う人いるんだ〜"
などなど面白半分で見て頂けたらと思います。
只々、皆様にもっと私のことを知って欲しいそれだけのことです。
それでは、早速。
私 あ こと宇田川愛花は、純フィリピン人の母シェリーと64年間江戸っ子の義一の元授かった後平成10年に江戸川区で産まれました。
蠍座で御歳21歳でございます。
幼少期は、フィリピンに度々帰省させられ(私と母と姉で*1.)
フィリピンにて、母の外出が多かった為叔母によく面倒を見てもらっていて3ヶ月間程フィリピンに滞在していたが母が育児放棄をし過ぎた所為か私は叔母を本当の母親だと思い込み母シェリーはショックのあまり私をフィリピンに置いて自分は、日本へ。
私 あ は、フィリピンに1年いたがその後日本へ帰るのであった。
そんな私は、タガログ語も英語も全くと言っていいほど得意ではない。恥ずかしいものです。
そんな幼少期です、正直なところ全く覚えは無いです。
そして小学生に上がると
ん〜まあ、開花するわけですよ。
小5の最初当たり、私は何人かの子に仲間外れにされたんです。
小学生あるあるですよね、"とりあえず"みたいな感覚のやつです。
そして仲間外れにされた私は、父に相談をしました。そうしたら父が言ったのです
『お前は強くなれ』と。
一見 え?それだけかよ?! と思いがちですが
次の日から開花されてしまって
言葉通り強くなってしまうんです。(語彙力に欠けてて申し訳ないのですが)
それからの小学生生活は、ボス!のような毎日を送っていました。
勿論 ボス! という明らかに強そうな名前を背負っていたので私に逆らう人、私が気に食わない人にはとことん理不尽な虐めをしていたんです。
まあ強くなる、成り方を履き違えてしまってねえ
、、そんな私は、中学生に上がってしまいます。
中学校生活では、ボス!的性格ではなくなっていて
とにかく生意気且つ厨二病で他人より自分そんな人間でした。
メイクというのを中学一年生で覚え、中学二年生に上がった時には髪まで染めたりしていました。
今考えると、ヴァージンヘアーはとっくのとうに失っていたんですね、、悲しいものです。
ですが、中学三年生になると着々とまともな人間になっていくんですね。
中学生活では、沢山と言っていい程片想いをしていた所為かその頃から様々な人間を知るようになりました。
先輩や同級生との恋愛は、今考えるとキラッキラで思い出すだけで眩しすぎるくらいです。
そして、初めての受験をしました。
担任の先生からは、都立はいけないから安全性を考え私立を勧められ
渋々説明会に行った学校が私が必死になって通った高校になります。
それが正しく"女子校"というものでした。
品川にあるめちゃくちゃ都会で輝かしい高校生活が送れると期待を抱きながらようやく高校一年生になるわけです。
高校生活もかなり刺激的でした。
高校一年生では、初日からとにかく"なめられちゃあかん!"という心持ちで居ました。
最初は、気が合う子が多数いて毎日がとても新鮮で楽しいかったんです。
が、そんな幸せな日々は、続かず一番仲が良かった子とギクシャクしてしまい
私は、上手くその子との仲を修復出来ずその一番仲の良かった子は、クラスの中で存在がボス的感覚の子二人と仲良くなってしまい私は遂に一人になってしまうんです。
その期間は、本当に苦しくて罵声や孤独感を常に味わいながら日々の高校生活に嫌気をさしたものです。
何度も遅刻や欠席はもちろんのこと
親には未だに中退するかと思ってただなんて言われたり、、
そんな私ですが地味にきちんと部活に入っていたんですね
意外ですが、軽音楽部に所属していました。
その軽音楽部は、私にとってとても救いでした。
一つ上、二つ上それからOGの先輩方からも可愛がって頂いて
そこの場所で生きる全てが私にとって特別なもので
何度か辞めようかとも考えたことはありましたが
本気でなんて思ったことは一度もないくらい
私の中では、大きい存在でした。
部活もそうですが、部活以外にも救いはありました。
それが当時同じクラスであった、高校の中では地味と言ったら分かり易い部類の二人の子と仲良くなりその子達が私を孤独から救ってくれました。
今まで、明るくて元気且つ自身を主張したがる人たちと連んでいた私ですが
その子達の誠意が当時の私には、輝かしいものでした。
その子達のおかげで、私は高校を辞めることなく
ようやく高校二年生に上がれるんですね。
高校二年生に上がる前、
私の学校は、類型ごとにクラスが分かれていて
進学するクラス(文系理系)・PC系・家政科・その他
のジャンルのクラスがあり二年生から三年生は自らが選んだ類型に行けるという方針であり
その中でも私が特に行きたかった類型が
家政科の一番手だったのです。
私は、一年生の頃に同じクラスだった人達全員と
離れたかったのがきっかけに
その類型の一番手に入りたかったんです。
一番仲良かった子とも私を救ってくれた二人からも逃げたくて新しく私を築き上げたかった
だからこそ一番手に行きたかったものの
勉強をしてこなかったあまり学校に行っていなかった所為で
行けたのは、家政科の二番手でした。
同じクラスだったのは、一番仲の良かった子それから私を救ってくれた二人が居ました。
その瞬間、ああ辞めたいなだなんて思ったりも、、
けれど高校一年生の頃の弱気な私は居なくて
新しく友達を作ろうと始まった高校二年生。
もうここからは、私の人生はガラッと180°変わり
もう180°回転してようやく普通の女子高生としての日々を送れたんですね。
何人かのグループを作って互いの家に泊まりに行き放課後はショッピングモールのフードコートに入り浸り授業中は、騒ぎすぎて何度も先生に注意されたりお腹痛いと嘘をついて授業中トイレで雑談したり時には、グループ内で大きな喧嘩をしたり
時には、他グループと仲が悪くなったり
本当普通の高校生をしていました。
そんな私は、普通の女子高生になればなるほど
感受性が豊かに固定概念が強くプライドも大いに有り自分という人間をどんどん難しくさせました。
単純に生活をしているだけなのに
人の言動行動に格差をつけ自分という人間を構成させまくった所為か
今でも難しい性格であります
そのような性格だったので、高校三年では同級生の誰よりも早く大人になりたいと常に考え自身の生き方に自信を持ちその為、流行に拘らず世界観を持ち始めたんですね。
そんな私は、とくにハマったことがありました。
それがファッションという分野でした、
ですので大学はその通り服飾の大学の方へ進みました。
、、本当に長い長い遺書ですが、
私と言う人間にとって大切な出来事の一つ一つを
知って頂きたいと思っています。
それからの大学生生活と言ったら
波乱万丈という言葉しか当てはまらないくらいのものでした。
先に言ってしまうのですが
私は大学を辞めています。
けれど、何の後悔も悲しみもありません。
私は、大学に行って
様々な人間と交流を交わしたり
沢山の感情に溺れたり
喜怒哀楽の全てを自らが狂うまで表現したり
本当言い切れないほどの事を
してやりました。
そう、してやったぐらいなんで
そもそも未練もクソもないわけなんですよね。
大学一年、二年行っていないも同然で
可能性という言葉を使って自由に生きて
やりたい放題していました。
そして、2019年の二月に私は大学を中途退学し
高校三年生のファッションにハマっていた時期から夢見ていた将来を
今フリーター兼アマチュアのカメラマンをしながら
夢を叶えるため日頃生活をしているという感じで
まあまあ、ながぁ〜いお話ではあったのですが
このブログを書くのに二ヶ月は、掛かっていてですね
本当後半は少しスピードを加速していたのですが
人生なんてこんなもんでして
私は、私しかいなくて
そんな私を知っている人は
私 あ しか居ないんです。
私が生きるこの世界は、
何事も無く平和で
思い出は全て綺麗に変化し
未来は、期待をするばかりに
怖くて苦しくて多大な努力と体力が
必要ですが
私は、今ここに生きて
明日を無駄なく自身の為に歩んでいこうと思っています。
もし、万が一
私に何かあった時は
私に関わる全ての人間を愛していたと皆に思って欲しいと思います。
遺書というか
承認欲求と自己満足な塊の記事でしたが
ここまで見て下さった人
この記事には、沢山の愛が込めてあるので
是非、あなたにもお裾分け出来たら
そんな風に思います。
明日も素晴らしい一日に、愛を込めて。
*1:父は、仕事のため欠席